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2006年1月の日記

津波被災地:食事
 寄贈式終了後、父兄会会長の自宅で昼食をいただきました。
 さすがは海の町です。おかずは魚に海老。
 お皿は昔ながらのバナナの葉っぱでした。
 お米もこの辺が原産地と言われています。(お米発祥の地は南インド)
2006年1月28日(土)  No.190

津波被災地:被災写真展
 1月28日にあわせて、2月3日までの1週間、被災状況の写真展示会が行われました。
2006年1月28日(土)  No.189

津波被災地:明日に夢
 2004年12月26日の悲惨さは一時たりとも忘れませんが、明日への希望は持っています。
2006年1月28日(土)  No.188

津波被災地:入りきれず外にも行列








 式典中、講堂の中に入りきれない人達が外にもたくさんいました。
2006年1月28日(土)  No.187

津波被災地:歓迎の踊り
 地元のセミプロを一人招待し、きちっとしたインド舞踊もありましたが、催し物の多くは学生による地元の踊りでした。
 遠来の客人をもてなす意味もおおいに有りますが、この時間を自分達も楽しんでいるという感じです。
2006年1月28日(土)  No.186

津波被災地:生徒達
 贈呈式に出席した小学校の生徒達です。
2006年1月28日(土)  No.185

津波被災地:寄贈されたカロムボード








 写真左は寄贈されたカロム板です。裏の方が写っていますが、おはじきのように指ではじくビリヤードです。インド発生のゲームで、ビリヤードの原型とも言われています。

 写真右は寄贈された書類入れです。
2006年1月28日(土)  No.184

津波被災地:贈呈式出席者
 非常事態になると行政の負の部分が目立ちますが、今回の津波被災復興に関しては、ナガパッティナム県部長が3日とあけず全国放送でとりあげられ、賞賛される状態でした。
 2006年1月28日に行われた、日本天台宗・一隅を照らす運動、及びパンニャ・メッタ・サンガによるキッチャンクッパン・パンチャヤット、ユニオン小学校教材贈呈式には、県副部長兼被災復興支援復興部長のラビンドラ・プラサードさん(写真右から2人目)も出席し、大きな拍手が起こっていました。
 写真右から3人目は教育部長、4人目は医療部長です。
2006年1月28日(土)  No.183

津波被災地:寄贈されたコンピュータ
 「天台宗一隅を照らす運動」の支援により、下記の教材が寄贈されました。
 写真は寄贈品を受け取る校長先生及び父兄会会長。

1、コンピュータ 2台
2、勉強机・椅子70脚
3、黒板12脚
4、弁当箱および給食用皿368枚
5、通学用かばん368個
6、書類入れ用ロッカー5つ
7、大型トランク12個
8、地図12枚
9、サッカボール、ゴール及びネット1組
10、バドミントンラケット、シャトル、ネット1組
11、クリケットセット1組
12、カロムボード1組
13、チェス板1組
2006年1月28日(土)  No.182

津波被災地:復旧工事








 少しずつは復興していますが、もともと経済的に貧窮している国です。津波被災から1年以上が経過しましたが、いたるところで復旧工事をしているのが見受けられます。

写真左・流された道路の復旧工事。
写真右・流された橋の復旧工事。
2006年1月27日(金)  No.181

津波被災地:2004年12月26日生まれのパルヴァティ
 幼児を抱いているお母さんは、津波で実の娘を失いました。
 抱かれている娘は、2004年12月26日生まれ。何もかもが津波でごったがえしている日であり出産後の治療がうまくいかず、母親が死亡しました。
 子を失った母親が、母親を失った児と縁組をし仲良く暮らしています。
2006年1月27日(金)  No.180

津波被災地:組み立てを待つ船木
 ばらばらになっても持ち主にとっては船。一つ一つをくまなく探し回り、大事に集めた事が感じられます。早く組み立てられ、海原に出る日を持ち主も船も待ちわびています。
2006年1月27日(金)  No.179

津波被災地:錨の門
 家の入口の門の図柄までが船の錨。
 この村が海に、漁に、期待と希望を持って生活していた事が伺えます。
2006年1月27日(金)  No.178

津波被災地:漁が少しずつ復興
 崩壊した船が少しずつ修理されたり、新しく作られたり、復興の動きが続いています。
2006年1月27日(金)  No.177

津波被災地:進まない復興
 復興の進んでいる部分も多々ありますが、半壊の家の撤去すら終わっていない箇所もあります。
2006年1月27日(金)  No.176

津波被災地:復興村落
 海から40〜50メートル以内の家屋は全て倒壊しました。その後は御覧の通りです。
 行政は浜辺から離れたところに集落の移動を促していますが、住民は糧を得る事のできる海を離れたくないため復興が難航しています。
2006年1月27日(金)  No.175

津波被災地:マリーナビーチ墓所
 もともとは民家の在ったところです。
 全てが津波に流され、残された家族がお墓を建てました。
2006年1月27日(金)  No.174

津波被災地:チェンナイマリーンビーチの仮設住宅
 2004年12月26日、津波で家屋を失った人達の多くは、今でも仮設住宅での生活を余儀なくされています。
2006年1月27日(金)  No.173

津波被災地訪問:現地スタッフ
 パンニャ・メッタ・サンガの本拠地から被災地のナガパッティナムまでは、1,400km離れています。ナグプールからチェンナイまでの1,100kmは夜汽車に揺られて19時間。インドの汽車は4〜5時間遅れること当たり前。そこから330km先にあるナガパッティナムまでは車に揺られて6時間。ナグプールから少なくとも25時間無いと着く事ができません。デリーから関西空港までは約10時間ですので国内でありながら2.5倍かかります。
 西インド、グジュラートの大地震復興時もそうでしたが、現地に信頼できるスタッフがいなければ活動は一歩も進みません。グジュラートではマヘーシュさんという方が仲間を集め尽力してくれました。
 今回の津波復興支援にはチェンナイで開業医をしているナーガラージャン先生(写真左から4人目)が仲間と東奔西走してくれました。
 距離がどうであれ、インドでは、人海戦術が叶わなければ活動は進みません。
2006年1月27日(金)  No.172

運動会表彰
 例年PM学園では共和国記念日の数日前に運動会を行い、記念日当日に表彰式を行います。
 どこでもそうですが、表彰状や記念品を貰うと、これこそ億万ドルの子供の笑顔をします。
2006年1月26日(木)  No.171

独立に貢献した人達
 1月26日、PM学園文化祭の出し物より、イギリスからインドが独立するに際し貢献した人達です。
 右からマハトマ・ガンディ、アンベドカル博士、ザシのラニ(ザシ藩王の后。フランスのジャンヌダルクにたとえられる)等。
2006年1月26日(木)  No.170

共和国記念日
 1月26日はインド共和国記念日です。日本で言うところの憲法記念日にあたり、1947年の独立時に、独立国として憲法が制定された日です。
 この日はインド全国で、公共機関は勿論のこと民間関係でも記念行事が行われます。
 PM学園でも毎年文化祭を行います。
写真:国旗を片手によろこぶ生徒達
2006年1月26日(木)  No.169

PMS本部で出版の作業
 パンニャ・メッタ・サンガ本部近くの寺院に住むギャンディーブ(智灯)師。仏教用語であるパーリ語の博士であり、昼間は研究所で教鞭をとっていますが、時間が空くと本部に寄って色々なことを手伝ってくれます。特に書類作成や翻訳。
 今日は、PMSの副理事長カンデカル博士が出版することになっている著作に、長年のご縁により堀澤祖門大僧正が序文を書くことになり、日本語で書かれた文章をマラティ語に翻訳するのに私と共同作業をしています。
 お互い背水の陣にならないと動かない性格。明日の締め切りに間に合うよう、夜半まで続きます。
2006年1月19日(木)  No.168

 数年前にナグプール市立小学校を退職したシェンデ先生です。
 孫の世話と家庭の事情で、数年PM本部に顔を出せなかったのですが、久しぶりに元気な顔を見せてくれました。
 在職中は1キロ近く離れている家からほぼ毎日のように本部へ顔を出し、色々な助言、手伝いをしてくれたのですが、現在は諸事情がそれを許さず久方ぶりの再会となりました。
 禅定林仮本堂の建立時期から親身になって手伝っていただきました。色々な思い出があります。先生の顔を見ると思い出すのが、仮本堂建立の時本尊様を安置する台をつくり、大理石をつけることになりました。
 しかし、技師が計算違いをして30cm×1メートルの大きさの大理石が2枚足りなくなり、この程度の荷物をトラックで運ぶのは経費的に勿体無いということで、私がバイクを運転し後部の先生の膝の上に大理石が2枚。今のように道が良くは無く、前に進むより、穴ぼこをよける時間の方が長いような状況でした。そのようなでこぼこ道を2時間以上かけて禅定林に到着。走っている最中先生は一言も言わなかったのですが、両膝の生皮が擦り切れていました。
 20年にわたるパンニャ・メッタ・サンガの活動は、このような無私無欲の人達に支えらています。
 私の父親サッチダナンダ・マナケとも大変懇意にしていました。先生は久しぶりに顔を出したつもりだったのですが、来た1月18日はサッチダナンダの祥月命日。しばらく来てないのでサッチダナンダ氏のお呼びがかかったと、先生御本人も驚愕していました。
2006年1月18日(水)  No.167

図書館の完成も、もう一息

 2月8日に落成式を迎えるパンニャ・メッタ図書館の工事も、ペンキを塗ったりの最終的な工期を迎えています。
2006年1月15日(日)  No.165

サンチー近くの仏跡に遠足
 サンチーの近くと言っても180km離れた場所でした。アンベドカル博士の生誕地を記念してマフ市にアンベドカル博士思想学科大学があり、1月5日に講演を頼まれて行ってきました。
 電車で行くにはかなり不便な所、大きな時間的ロスが見込まれたため、経費は大学から出るので自家用車で行くことにし、一人で行くのは勿体無いので子供達もいっしょに、数人がサンチー観光を兼ねて同行となりました。
 完全な形で残っているサンチーの仏塔は有名ですが、周り数十キロにわたって、いたるところに半壊、全壊の仏塔跡があります。
 仏教遺跡が省みられるのは外貨が入る要素のあるところのみ。禅定林近くにも置き去りにされた仏塔の部分ががあります。
2006年1月5日(木)  No.166

献血
 今年1月3日、初めて協会主催で献血を行いました。
 手術等で血液が足りない現状にあっても、特に農村部や老齢の人のなかには、一度血を抜くと二度と再生しないとの誤った考えがまかり通っており、献血が遅れています。
 またある人達は血を売ることで糧を得ているので、なかなか血が集まりません。
 この現状に我々で何かできないかと、パンニャ・メッタ学園の児童、父兄を集め、ナグプール大学病院の献血の先生に啓蒙的な話をしてもらい、その後男性12人女性1人計13人が献血をしました。
 病院の先生曰く、このような会にいつも大きな救急車とスタッフ5人で出向くのですが、350mlが3〜4本、多くて5本集まるくらいです。今日は13本も集まって大変喜んでいます。
 政府から献血キャンプの運営にと、一人の献血者に対して10ルピー支給されます。このお金を使って献血者にコーヒー、ビスケットを振るまいます。
2006年1月3日(火)  No.164

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