◆パンニャ会報19号(2014/7/1)発行 1(1-4頁/PDF形式) 2(5-8頁/PDF形式)


パンニャ・メッタ協会が年2回発行している会報のメイン記事などを中心に掲載いたします。

 共生No14

 私たちは長年、事あるごとに、こぞって助け合い運動に参加し、その多くの場合が、すでに所有しているものや、自身には不要と感じているものの提供でした。
 今年私は新しい社会福祉の形態に出会いました。先に行っている宗教団体を参考にされたとの事ですが、愛知県吉祥院の立松住職は、ご本人はもとより、檀家さんをはじめ、有縁の方々に「一食運動」を奨励しておられます。週に一度一食を抜き、その食事に必要な金額を貯金、年間に集まったお金を社会のために使用するものです。吉祥院で集まった浄財を昨年PMSにいただいたために、知ることのできた活動です。
 私が感銘を受けたのは、社会還元以上に、活動が、自己犠牲を奨励していることです。長年我々は、世界情勢を知る必要性を実感し、諸活動を継続してきました。そろそろ、一歩前進しなければならない時期が来ているのではないでしょうか。経済発展のために心血を注ぐのでは無く、何故、今以上の経済の発展が必要なのかを、真剣に考える時だと感じています。
 我々が生活の便利さを追求する限り、地球規模での共存は有り得ないと考えます。山川草木の幸福があってこそ、始めて人間の幸福が存在します。そのためには余り物や不要なものを通しての、福祉の時代はこの辺で終局を迎えねばなりません。誰かのために、何かのために、自身が犠牲になっている現状が生じない限り、環境改善や共生は発生しません。受けるばかりの人生ではなく、与える日々を期待し、夏には子供の家の子供達に、また11月には禅定林での研修会において「一食運動」奨励しました。一年後が楽しみです。

 共生No.13

 紛争当事者でない地域において、平和のための会議等が盛んに催されていますが、当事国での状況は一層悪化の兆しを見せています。5月中頃に、マハラシュトラ州でも、キリスト教の宣教師が貧しいヒンドゥ教徒に支援をほのめかせ、改宗を強要したため、リーダたちが宣教師に殴るけるの暴行を加える事件が発生し、連日メディアを賑わせました。
 キリストが説いたはずも無い、弱みにつけこんだ布教、そうしてヒンドゥ教神が唱えるはずも無い、解決を不当な暴力にゆだねる行為、我々には両方が理解できません。
 多くの人たちが夫々の宗教思想に従い、教義が思考の基底に存在している以上、宗教が共生しなければ個々の共生が叶うはずがありません。
 歴史的に仏教との関係を振返りますと、インドにおけるヒンドゥ教と、日本における神道は同様だと思います。しかし現在日本で両宗教が共生を維持しているほど、インドでの宗教関係が良好とは言えません。
 標榜に止まる事なく、落慶法要を通しても、禅定林が諸宗教霊魂憩いの場所、世界平和祈願の場所であることを伝えたいと考え、長年交流のある坂本の日吉神社権禰宜に参加を打診したところ快諾して下さり、これこそ神仏の思召し、是非に神事による祝詞をあげてもらおうと、神社関係諸師のご協力をいただき誓願が叶いました。諸外国にあっては、正規な法要に他宗教の法要をとり入れるのかと、理解に苦しむ不思議な光景でしたが、一見、摩訶不思議な法要であったにせよ、世界中で、この現状が生まれない限り、共生は夢物語に過ぎません。

 祈りは共生のためNo.12

 禅定林大本堂建立の建立委員会発足、設計等の準備を開始した時から、私自身がしなければならない一番大事なことは何かと考えた時、拝み祈ることだと知り、落慶式までの約3年間に「釈迦供」という法要を千座しようと誓願しました。法要中、諸尊の名号を百偏、お釈迦様の名号を千偏唱えます。念仏、題目と同じ心境です。
 本来、名号を一心に唱えなければならないのですが、人間のこと、よそ見をする事があります。数百座をこなすころには長い経文であってもほぼ暗記します。これこそが魔の時期。なぜ繰り返しお釈迦様や諸尊の名号を唱えているのか、と考えるようになりました。考え出すと寝ても覚めても「なぜ」が頭を離れません。改めて漢字がうまく作られていることに感嘆しました。
 ある時、念仏という漢字を見て、ふと気づいた事があります。念という字をひも解くと、今と心に分かれ、下には仏。心を今にする、今を同じと同義語にとらえたならば、心を同じくするとなります。では誰と心を同じくするのかということですが、仏と同じくする。そこで仏様の心とは何かを考えました。阿弥陀様は、自分自身が仏になる機根を得ても、最後の一人を救済しないかぎり、仏の位に至ることなく、山川草木、一切衆生の幸せのために己の命をつくしますと誓願されました。私も仏と心を同じくしようとするのですから、私利私欲のために邁進するのではなく、自身以外のすべてのものの幸せのために身を尽くすことを誓願する、それが念仏する事の意味ではないかと思うようになりました。
 禅定林大本堂落慶まで僅かとなりましたが、その気持ちで「釈迦供」を継続したいと考えています。多くの人が念仏をするようになれば、衆生が幸福になり共生が叶うのではないでしょうか。

 共 生No.11

 ポーニの人達が長年待ちわびていたパンニャ・メッタ図書館が、2月8日に落成しました。2階建ての図書館、近辺のどこにも無いような立派な建造物です。
 図書館の始まりは10数年前、市内にあった民家の2階を借り、一般図書館の役割以外に、購読できない人達のために新聞や雑誌をおき、家庭に学習環境が無い人のために教材を用意し24時間開放していました。また必要な学年には補習授業を行ってきました。第2段階としてPM協会所有の建物になったのですが、老朽化に加え数年続いた大雨のために建物は倒壊寸前となりました。
 この危機を目の当たりにされた天台宗「一隅を照らす運動総本部」の方が、何とかならないかと考え、更地にする金額を含め、図書館新築用にと1,200万円寄付して下さいました。この支援が無ければ建物は壊れ、図書館活動は途絶えてしまっていました。緊急事態を考慮し支援下さった「一隅を照らす運動総本部」には感謝の言葉もありません。言葉を有しないのは我々協会関係者だけではありません。毎日図書館を利用している100人以上の閲覧者、教室を使用し、補習授業を受けている学生等も感謝しています。
 この先、図書館の良し悪しを左右するのは、利用する人達の行為いかんによります。図書館を通じて、多くの人達が情報や知識を得ることが可能になりました。しかしその情報や知識を智恵に変えてほしいと願っています。知識を智恵に変えるためには慈悲が不可欠です。慈悲のない情報・知識は大いにして使用方法を間違え、私利私欲になってしまいます。己を忘れてでも、山川草木すべての幸せを考える、これが慈悲です。パンニャ・メッタ図書館を利用する人たちが得た情報・知識を慈悲によって智恵に変え、日々を送ってくれる事がパンニャ・メッタ図書館の願いです。

サンガラトナ・マナケ

写真:PM図書館のテープカットをする「一隅を照らす運動総本部」秋吉文隆本部長およびシャサンラシュミ大僧正
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