最近のインドの調査によりますと、人口の26パーセントが極端な低所得者であり、世界銀行が生活するのに最低1,410ルピー必要というのに対し、彼らの1ヶ月の収入は都市部で454ルピー、田舎になると327ルピー。また子供のうち36パーセントが栄養失調とのことです。コンピューター、ITで一躍経済大国の仲間入りをしようとしている国とは思えない数字です。
反対に、最近読んだヒンディー語の雑誌に、自分は物書きであるために生活の全てをエアコンの中でしており、路上生活者が寒さのために死亡したとの記事を目にした時に寒さを知り、熱波で人が死亡したとの記事を読んで暑さを知り、テレビで洪水の映像を見て雨期を知りますと書いてありました。
我々は個人的に、もしくは団体、もしくは国をあげて、永年恵まれない人たちを助けようと様々な活動を展開してきました。時には食糧支援、時には寝具支援を行ってきましたが、上記の数字が示す通り国際情勢は良くなるどころか、国家間もしくは国の中での経済格差は広がる一方。富めるものは益々富み、貧者はどんどん貧しくなっています。
日本で、我々は衣食住すべてにわたって物があふれかえっている日々を送っていますので、全世界が同じ生活を送っているのではとの錯覚を持っていますが、地球上では多くの国の人たちが、食事を得ることができなかったために尊い命を失い、暖をとるすべが無いために凍え死んだり、我々自身が寒い地域の住人ですので暖をとることの必要性を実感できても、50度近くになった時に直射日光や熱風から命を護るための壁や屋根が無い苦しさは理解できません。
また、蛇口をひねれば水が出てくる日常生活とは裏腹に、幼い子供が何キロも離れたところから水を汲んでこないと日常用水にも困る、保育園に行って遊び、帰宅しては親に甘えたい4、5歳の幼児がレンガ工場や道路工事、畑仕事へ大人同様に働きに行っています。
パンニャ・メッタ子供の家で生活をしている子供達も、来園前はこれに準じた日々を送っていました。永年支援を続けているにもかかわらず現状は一向に改善されません。
このような現状を目の当たりにし、我々は支援方法を顧みた時、今後どのような支援をすれば良いのか岐路に立たされていると思います。
私は専門家を否定する人間ではありません、しかし専門的な図式・方程式・数式をかかげ、自身の日常生活から、隣人関係、社会関係、国際関係、支援にいたるまで、生身の人間としての想い、人間としての感情・感覚を置き去りにして解決方法を見いだそうとする風潮が見受けられる事を悲しく思っています。
我々は当協会の名前にもなっているパンニャ・メッタ運動を展開しようとしています。パンニャとは「智恵」、メッタとは「慈悲」です。智恵とは、人間としての理を知り、日常生活に反映することができることを言い、慈悲とは、苦しみ悩んでいる人を心底理解し、その苦悩に同感し、苦悩を癒そうとする働き。同じ目線で人と人との触れ合いを重んずる行為です。自分本位もしくは見返りを期待しての行為ではなく、智恵と慈悲の心をもって活動をすることができれば、現在国際社会が抱えている問題の多くが解決すると考えています。
ある必要な一時期、誰かの支援を受ける必要があったとしても、それが恒久的な行為になると、受け入れ側が当たり前に感じるようになり、自助力が減退していき、益々支援が必要な社会が実現します。支援を受けている人たちの自助力が増す支援でなければいけないと思います。そのために支援する側も、自分の思い込みだけでなく相手の立場に立ち、また見返りを期待しない活動をしなければ支援の意味が半減すると思います。
今後の支援活動の方法はいつまでも頼られる内容ではなく、日々自助力が増し、近未来、彼ら自身の夢と希望がかなえられ、支援が不必要と考えるようになるだけでなく、他の人のことを考え、支援する側の人間になるような支援をしていくことだと痛感しています。
仏教には「
卒啄同時」という言葉があります。「卒」は鶏の卵がかえる時に殻の中で雛がつつく音。「啄」は母鶏が殻をかみ破ること。母鶏と雛のタイミングが合わないと健全な子供が孵化しないそうです。
このように、ボランティア活動もする側とされる側のバランスがとれていなければ健全なボランティアとはいえないと思います。
サンガラトナ・マナケ