仮想世界(バーチャル)と現実世界を混同し平和ボケで生きている我々にとって、実際に起こっている戦争であっても、それは画面の中の世界であって自分の身にふりかかってくるものであるとは考えておらず、リセットボタンさえ押せば失われた尊い命も、無残に破壊された地球も蘇ると思い込んでいる。しかし、このように悠長な考え方で日々を送っているのはごく僅かな国であって、次は自国かと怯えながら生活している人達が大半である。
今回のイラク戦争(戦いをしているのだから敵味方、1つの国があるはずなのに何故一方の国名だけを挙げて戦争名にしているのか、私には理解できない)を私はずっとインドで見てきた。インドの中でもへんぴな所に位置するルヤード村で、国際社会の情報を得る事は至極困難なことである。一昨年のツインタワー襲撃の時も、禅定林で彿跡庭園工事をしていた。
その日も夜中に懐中電灯の僅かな明かりで関係者と相談をしていた時、日本の知人から電話でタワー襲撃の事実を知ったが、お寺にはテレビもラジオもなく、翌朝10時近くになってようやく来た朝刊を見て事件の重大さを確認した次第であった。
今回の戦争も、そろそろ始まるらしい、いやもう始まったらしいというくらいの情報しかなく、またしても日本から、開戦したので今回の訪印を見合わせたいとの電話が数本あり、やっと現状を把握することができた。
このように情報がなくとも、一度現実を知ると後の行動はすばやい。すぐにガソリンスタンドに走り、車の燃料タンクを一杯にした。当事国が当事国だけに、何時石油の輸入が打ち切られるか判らない。巷の噂によるとインドは数週間分の燃料しか保有しておらず、戦争に対するスタンスも当事両国のどちらの意に従うことなく、自国の考えを持っていた。私だけでなくインド国民の大半が戦争の開始を憂い、いつ自分たちの日常生活が脅かされるかと怯えていたのである。インドで生活する我々にとって、地球の裏側で起こっていようと戦争とは仮想世界のものではなく、現実世界のものである。
インドで観ていたからなのか、アメリカ・イラク両国の映像が映し出される時、アメリカの人達は自国が戦争の当事者であるにもかかわらず、本当にこの国が戦争をしているのだろうかと疑いたくなるほど、普段どおりの生活を営んでいた。夜になると野球観戦をし、休日にはゴルフと家族団欒の時を過ごしていた。一方イラクは衣食住、全てを奪われ、家族がばらばらに逃げ惑う映像が映し出されていた。同じように戦争の当事者なのに、この違いは何だと目を覆いたくなる場面ばかりだった。
この度の戦争、とらえ方は様々あるようだが宗教戦争ととらえている人も少なくない。
アメリカ兵が、アメリカにイエスキリストのご加護がありますようにと祈っている姿をテレビで観て、中近東のイスラム教のある宗派の代表者が、アッラーのためにイスラム教徒は一致団結しなければならないとの声明を発表。これを受けた信仰深いインドのイスラム教徒たちは、代表者がそう仰っておられるのならと立ち上がった。こうなるともう止まるところを知らない。イラク戦争のためとは言え、アッラーの名の下イスラム教徒が一致団結しているのであれば、将来ヒンドウ教にとっても大きな脅威になるだろうとの懸念から、宗教家はもとより政治家も、ヒンドウ教徒の士気を高め原理化運動を活発にしている。
世界3大宗教といわれるうちの2つ、キリスト教とイスラム教、そしておよそ地球人口の6分の1を有するヒンドウ教が、原理主義化活動に拍車がかかっている裏には、イラク戦争も一枚絡んでいる事をお伝えしたい。
合掌
<写真>地球の平和を願って禅定林に植えられた白蓮